梅田芳穂
梅田芳穂(1949-2012)
ポーランド共産主義時代の民主的野党活動家、労働者擁護委員会(KOR)協力者、独立自主管理労働組合「連帯運動」の長年に亘る活動家、YOHO社創業者。
梅田氏は、戦間期にポーランド文学の翻訳者であり、ワルシャワ大学日本学部の共同創設者であった関西学院大学・梅田良忠教授の長男。
1963年、13歳のとき、父親の遺言で、単身ポーランドにやって来ました。そこで彼は、父の友人である野党の「Ruch」組織活動家であり「Pro Ecclesiaet Pontifice」メダルの栄誉に関連した考古学者のコンラッド・ヤヂヂェフスキ教授によって養育されました。
1968年、梅田氏はワルシャワ大学で学び始め、1968年3月の事件後に降格された学生を支援する組織に加わりました。
1973年から1981年、彼は日本の日本企業のゼネラル・マネージャーのアシスタントとして働いていました。 1976年から1981年の間、梅田氏はKOR(労働者擁護委員会)、後のKSS KOR(社会自己防衛・労働者擁護委員会)の委員であり、日本のガリ版印刷機の輸入を手伝い、これにより複写式の反政府出版物が多数印刷されました。
1980年にマゾフシェ地域のラジオ「S」の組織化に関与し、連帯労働組合の設立当初から、日本の労働組合との連絡を確立するなど、組合の組織に積極的に参加しました。
1981年5月、彼はレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)が率いるNSZZ独立自主管理行動組合「ソリダルノシ 連帯」代表団の最初の国外視察として日本への視察旅行を組織しました。 1981年7月から、梅田氏はマゾフシェ地域のNSZZ「連帯」の国際関係担当の財政及び組織的問題の副委員長を務めました。
この反政府活動のために、彼は1982年1月にポーランドから国外退去処分を受けたが、その間も「連帯」活動への建設的関与を続けました。
1982年から1989年にかけて、彼はフランスの「連帯」調整委員会のメンバーであり、ブリュッセルの「連帯」調整事務所で働き、日本からのポーランドへの援助の共同主催者でした。 1984年から彼はアジアのNSZZ「連帯」の代表を務めました。
1989年にポーランドに戻った後、彼は円卓会議のオブザーバーになり、マゾフシェ地域選挙委員会の仕事に参加しました。
政治体制変換後には、彼はポーランドと日本の国会議員グループの形成を開始し、ポーランド国会議員と日本の代表団の会議を組織しました。
かつての連帯運動の同志であり新体制下の政府首脳の助言によりYOHO社を創設、社長として、日本からのポーランドへの投資を誘致するために行動し、京都議定書の実施に取り組み、エネルギーの分野でポーランドと日本の間の協力を発展させ、中国電力株式会社等の様々な日本企業との協力を確立しました。
温室効果ガスの削減、バイオマス、排出権取引、その他のバイオ・エネルギー問題に関する彼の記事は、ジャーナル「Wokół Energetyki エネルギーの周辺」に掲載されました。
これらの彼の民主主義活動に対しては、2006年にレフ・カチンスキ大統領からポーランド共和国ポロニア・レスティトゥータ「将校十字架」勲章のを授与され、2015年にブロニスワフ・コモロフスキ大統領からポーランド共和国功労「司令官十字架」勲章を授与されました。
彼のプロフィールは多くのレポートで発表されており、1995年に彼はボジェナ・ガルス・ホツクバ監督のドキュメンタリー映画「Góral z Tokio 東京から来た山人」の主人公になりました。彼の人生は、アンナ・ナシウォフスカ著の伝記「Wolny agent Umeda i druga Japonia自由の使者・梅田と第二の日本」に記述されています。